思いやり

常々、生きるということは「思いやること」だと思っている。

たとえば、絵を描く。文章でもいい。写真でも、なんでも。
独りよがりにならない作品にするには、見る人のことを思い描くこと、
つまり思いやりなんだな。
そして、適度な省略。簡略化することで、メッセージが届きやすくなる。

けれど、そのデフォルメが、時として
当たるはずもないと思っていた急所を射抜くことがある。
思いがけない人を傷つけることがある。
隠れていたやわらかな部分に真意があり、
そこをおろそかにして感覚が鈍くなっていくことも。

もう一度立ち返ろうと思う。

そういえば、こんなことを思い出した。

もう1年半くらい前。
上京してからおそらく一番古い付き合いのあるWさんが、家にやってきた。

なんの話をしてたのか忘れたけど、突然
「言おう言おうとずっと思っててさ、もう言っても大丈夫かなと思うんで、言うね」
とWさんは切り出した。

「YOUCHANの絵ね、痛々しいの」

Wさんはわたしのいろんな過去をリアルタイムで知ってる人なので、
その影をずるずる引きずっているわたしの作品を真っ向から否定した。
その描かれた絵は誰に向かって描いたものなのか。
メッセージを伝えたい相手は誰なのか。
などなど。
あまり深いことはここでは省略するけど、そんなことを夜更けまで話してくれたのだ。

そして、その数日後に、ミュージシャンのMさんからも同じことを言われてしまった。
Mさんはまだ知り合って日が浅かったのに、見破られていた。
形にすることを急ぐわたしを諭して、
「グロテスクにしちゃいけないよ」と指摘してくれた。

驚いた。


「どう描くか」「何で描くか」「どうやって形にするか」しか頭になくて、
自分の抱えている問題とは切り離していた。
だから、行き場のない感情が悲鳴を上げて作品に突出していたのだ。

このふたりからのメッセージがなかったら、今もぐるぐるしてたと思う。
モチロン、今も問題は山積していて、それは時折わたしの胸を締め付ける。
けれど、表現していくことにもっと素直に取り組むようになってから
ずいぶんと楽になった。

で、思う。やっぱり思いやりなのだ。

思いやりは、「偽りの明るさ」や「元気さ」を作品にかぶせるものではなく、
誰かに思いを伝え、伝わるように見せ方を工夫しよう、という
気持ちのこと。

そうだと思ってます。