内田百間に思うこと

たまたま書店でみつけた文藝別冊の「内田百間」。
いろんな人の百間論は全然面白くなかったが、
興味があったのは、やはり愛娘が書いた「父・内田百間」だった。

ちくま版を読んでいるときはそんなに気にならなかったけど
時系列順に収録されている全集を読むと、次のことが気になりだした。
それは、百間の読者とは、彼の身の回りに起こったことを
知っていて当然である、ということが前提で話が進んでいる。
そのくせこの人は、その出来事をほとんど書いてはくれない。
だから、予習が必要になる。

しかしながら、研究書の類も結構出てはいるけれど、
なんだか違うような気がして、古本屋で立ち読みしては
棚に返してしまっていた。

そんな折、「父・内田百間」を読んで、
腑に落ちなかった点がやんわりと納得いくようになった。
簡単に要約してしまうと、

・自分のことが第一の人だった。
・神経質だった。うるさい環境では文章がかけない人だった。
・そのくせ、子沢山だった。
・家族を省みなかったわけではなかった。むしろ、愛していた。
・でも結果として家族を裏切った。
・後先のことをちゃんと考えられない人だった。
・一人では生きていけない人だった。

作品に関しては、おそらくフィクションとノンフィクションの境が
あいまいな人であるということも、なんとなく理解した。
百間自身は、書いたものとはすべてフィクションだったのだろう。
(日記の類は除く)

そして、これから読むのだけど「蜻蛉眠る」は、
引き算しなくてはならない。鵜呑みにしてはいけない。

などなど。

家族による「百間の生き方」の記述は、わたしの一番深い部分をえぐる。
それは裏切られた当事者の意見だからだ。
だから、わたしは「裏切った張本人」の文章を読みたいのだ。
ここ1年くらい、読み続けているのは、そのせいだ。
随筆に見せかけておきながら、突如物の怪が登場し
幕引きになる展開だって、とても納得がいくではないか。