ポー大会だった
「19,20日にポー大会あるからどうぞ」と巽先生から手渡された1枚の紫色のフライヤーには、「エドガー・アラン・ポー生誕200年記念大会」のプログラムが書かれていた。「エドガー・アラン・ポーの世紀」を読み終わったことだし、これがとてもおもしろかったので行かねば!と、友人の美人書店員とともに両日参加してきた。二人ともキャンパスライフに無縁の人生、うきうきと待ち合わせて慶應義塾大学三田キャンパスへGO!
大会プログラムは、実を言うとわたしが想像していた以上にアカデミックで難しかった。特にバートン・L・セント=アーマンド氏(ブラウン大学名誉教授)の講演は通訳がなかった。でも普通にコトバが通じているし、質疑応答も英語だし......。気軽に参加しすぎたことを反省しつつも、それでも充実の二日間であったので、わたしなりに感じたことを記録しておこうと思った。
わたしにとっては二日目のシンポジウムがとても興味深い内容だった。トップバッターの鴻巣さんは、先述の「ポーの世紀」でわたしが一番感銘を受けた「ポーの影響は書き手ではなく読み手側に起きている」という論説を展開された方で、本に書かれていた内容を補完してくださったと思う。配布されたハンドアウトには、本では数行の引用止まりだった貴重な内容の写しがあり、これは読者にとってはありがたいボーナストラックだと感じた。やったね!と内心ガッツポーズ。
そして、安藤礼二さんは、ポーと同時代に生きた作家について取り上げていて、同じ時代に生きた作家が、奇しくも同じテーマ(外の世界ではなく内面や別世界)を描いてきたことに着目し、アメリカのポーと日本の平田篤胤を比較したり、東西の作家達の比較検討したりと、これがとても興味深かった。日本の平田篤胤から谷崎潤一郎、江戸川乱歩、寺山修司への一連の流れは非常に興味深いが、そういえば日本は第2世界大戦で、これまで第一線だった作家がいっせのせでリセットされてしまった経緯がある。これはその流れに影響はなかったのか、ふと気になった。このあたり、掘り下げてみたいと思った。
また、前後するが、1日目では青柳いづみこさんによるピアノ演奏と講演があり、「アッシャー家の崩壊」をモチーフにしたオペラ劇が紹介され、これまた非常に美しいというかデカダンな感じがぐぐぐと心に迫った。かっこいいのだ。これは通しで見てみたい内容だった。
わたし自身、昔から内省的・退廃的・不条理な物語が好きで、ずっと愛読してきているが、おそらくそういう恐怖に浸ることでなにかのバランスを取っているように思う。わたし自身が退廃的な絵を描くことはないけれど、もしわたしの内面からこれらの不条理で残酷な文学世界を取り上げてしまったら、おそらくいつもの明るく楽しいイラストは描けていないのでは......と思う。わたしにとっての「癒し」とは「残酷さ」だと思う。高校生の頃から、夢野久作や戦前の探偵小説界にどっぷりはまっていたけれど、そういうことなのだろう。
「ポーは自分自身を映す鏡」という説があったが、おそらく多くの読者にとってもっとも共感する言葉なのではないかと思った。