百鬼猫
オリジナルイラストです。
わたしは、内田百間をイメージした猫のキャラクターを描いてみました。
すると、その猫になった百間先生が...いえ、百間先生になった猫が......
とにかく、先生がわたしに声をかけてきました。
貴君、貴君...。
「何ですか、先生」
「ここは一体どこなのかね」
「市ヶ谷の隣の駅、曙橋にある、ゑいじうという画廊です」
「市ヶ谷の隣は信濃町ではなかったか」
「地下鉄が当時より増えております」
「この画廊は『ゑいじう』というのか。旧仮名遣いは健在というわけだね(※1)」
「いえ先生、残念ながら現在では旧仮名を使うことは殆どありません。
現に、先生の文章も......」
「なに、新仮名遣いになっているというのか。それはいけない」
「しかし、現に大人気で読まれています」
「人気などどうでもよい。しかし、なってしまったものは仕方がない」
「しかしながら、漢字の送り仮名は先生がずっと指摘なさってた通りに戻りましたよ」
「そうだろう。僕は何度も提言をしたからね。ときに貴君」
「はい」
「画廊といったが、貴君はなにをしている」
「イラストレーター...ええと、挿絵画家をしております」
「風船画伯(※2)のようなものか」
「そんなところです。風船画伯は、21世紀になって人気が出たんですよ」
「しかし本人が生きていなければ意味がないだろう」
「それはそうですが、美術館に長蛇の列が出来たそうです」
「僕は並ぶのは好きではない。ところで、貴君は僕の文章も読まれていると言ったね」
「はい、こんな風に『内田百間集成』と言う形で、文庫として編まれています」
「こんな小さな中に詰め込まれてしまっているのかい」
「でも先生、このサイズの本は電車の中で読むのにぴったりなんです」
「貴君は列車の中で本を読むのか」
「はい」
「列車に乗るときは、外の景色を眺めるのが本当だろう(※3)」
「はあ」
「人の目は文章を読むためにあるのではない」
「でも先生の文章を読むのは、とても面白いです」
「ときに貴君」
「はあ」
「なぜ僕は猫の格好をしているのかね」
「先生は犬よりも猫のほうがお好きでしょう」
「猫が好きというわけではない。しかし、人が飼っている犬は嫌いだ」
「先生の作品では『ノラや』(※4)を初めて読んだんですよ」
「あれは校正もままならなかった」
「猫を飼ったことのある人間にとってあんなに感動する話はありません」
「人の感動などどうでもいい」
「はあ」
「なんだかとりとめのない話だね」
「麦酒でも飲まれますか」
「昼間からそんなお行儀の悪いことはしない。
しかるに貴君、なぜ旧仮名遣いを使わないのかね」
「旧仮名はなんとか出せても、旧漢字が変換できないのです」
「なんだね、そのヘンカンというのは」
「......説明がたいへん面倒なのですが、よいでしょうか」
「面倒なのは駄目だよ」
「はあ」
※1 内田百間は旧仮名・旧漢字にこだわった。
戦後、仮名遣いが改められても、その方針を終生曲げることはなかった。
旧仮名・旧漢字を求めるファンは現在も多い。
※2 谷中安規。自彫自刷の版画家で、戦前の百間作品の挿画を数多く手がけた。
「風船画伯」とは、百間が安規につけたあだ名。
戦後まもなく餓死し、その急逝が惜しまれた。
※3 ただ列車に乗って目的地まで着くことだけを楽しみとし、
目的地では何の目的も持たない旅を百間は好んだ。
この旅の記録は「阿房列車」として全三巻で刊行され、人気を博した。
※4 自宅に出入りしていた猫「ノラ」が失踪して、悲しみにくれた百間の作品。
ノラを失った悲しさがあまりにも深かったため、
書いた原稿を推敲することもままならなかった。ペットロス小説としても名高い。
(2006年個展「文学山房」展示解説より転載)
下図は「なんちゃってカバー」。わたしの妄想で作ったカバーです。